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1 手と足で来るのを下女は待って居る 末
2 下女が宿厚着をさせて来てゆすり 安永
1、は夜這いの句。「手と足で来る」はすなわち這って来る。2、は狂言くさい。身元引請人が下女に厚着させ、妊娠を装って慰謝料を取ろうとする。
最後に名誉挽回の句(?)を一つ。
相模下女気が違ったかいやと言い 明和

 

前句付から川柳へ

清博美
前句付
川柳は、最初から独詠吟の文芸ではなかった。前句付と呼ばれる文芸形態から派生し独立して、一つのジャンルを形成したという歴史を持っている。従って、川柳の生い立ちを正しく理解するためには、どうしても前句付に対する知識が必要になって来る。
それでは、前句付とは一体どのような文芸だったのであろうか。これを詳細に説明すると大変な紙数を要するので、残念ながらここではかい摘んで説明するにとどめざるを得ない。
前句付は、題の前句と付句とからなる長短二句の付合形式である。その源流は鎖連歌時代に遡るが、前句付の名目が文献に登場するのは、中世連歌の時代である。近世初期の俳諸では本来の付合修練と娯楽の両面をもっていたが、俳諸の普及にともない付合修練を目的に広く行われ、それがやがて雑俳化の方向に進んで行った。
万治年間(一六五八〜六一)に、河内で六句付が起ったが、ここに初めて多数の作者と宗匠を取り持つ仲介者が登場する。六句付は、前句一に対し、四季各一、雑二を付けるもので、付合修練の目的に適うものであった。ついで延宝年間(一六七二〜八一)に、京都では五句付が起り、五句の前句に一句ずつを付けて点を競う形式に変化し、これが江戸にも波及して、以後東西ともに、四句付、三句付、二句付と簡略化が進み、元禄(一六八八〜一七〇四)初年、一句付の流行した大坂でその高点句集『咲やこの花』が出版された。この句集が前句付の雑俳化の転機となり、京都を中心に興行の企業化が進むのである。褒賞は過大化し、そして勝句の披露に会所本や一枚刷が登場する。また、この時代、笠付が大流行して、その雑俳化を決定づけ、前句の簡略化

 

 

 

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